「もののあわれ」 ~天変地異と日本人
2011年3月11日に発生した東日本大震災は悪夢だった。
津波は太平洋沿岸の美しい町を呑みこみ、人々の幸福を根こそぎ奪ってし
まった。大自然の猛威の前には人間の存在はちっぽけなものだ。
今から30年ほど前に私は高層マンションを購入した。阪神間の埋立地に
立つ背の高い棟の20階の部屋を買った。今にして思えば、なぜそんな危
なっかしい高層階を選んだのかと思うが、当時はこう信じられていた。
”関西には(関東のように)大地震が来ない”
それは結果として嘘っぱちだった。大衆に流布した風説(デマ)のような
ものだった。
1995年1月17日早朝に発生した阪神淡路大震災は、突如として私た
ちが住む町を襲い、破壊した。高層階に住むわが家は、得体の知れない怪
物にいたぶられ、形ある「もの」のほとんどがガレキと化した。
幸い家族4人にケガはなかったが、水道・ガスが停止する不便極まりない
生活を強いられた。
数日後、私たち家族は会社の勧めもあり、大阪府内にある会社の施設に移
った。被災地から大阪の会社へ通勤する困難と共に、ショックのため眠れ
なくなった妻の精神を癒すには被災地を離れることが最善と思われた。
車に乗り、武庫川を渡る。被害が甚大だった地域から尼崎市に入った途端、
様子が一変した。電気が煌々とついたパチンコ屋が現れた。
言いようのない悔しさがこみ上げてきた。被災地の無力感を感じると共に、
やるせない孤立感と疎外感を強く感じたのである。
■ ■ ■
その後3年間に亘って私たち家族は自宅を離れ、大阪の地で暮らした。
家が全壊した義理の伯母一家に自宅マンションを提供したという理由もあ
ったが、「被災地」から逃げてしまった自分を心の中で責めた。
忸怩たる思いの中で、強い厭世感と無力感に襲われた。
「形あるものは必ずこわれる。モノに執着していてはダメだ。」という思
いが私を捉え続けた。
広島支店に単身赴任をすることになった時、ある本に出会った。中野孝次
氏の「清貧の思想」である。氏は本の中で、富貴の空虚さとシンプルな生
活の中の充実を語った。そして、「清貧の思想」は日本文化の伝統である
ということを西行・兼好・光悦・芭蕉・良寛などを紹介しつつ説いた。
「形あるものよりも、形がないもの」を求めるべきだとの考えが私を支配
した。そんな折、米国では9.11の悲惨なテロ事件が発生する。
私は山頭火や方哉などの破滅的とも思える句に共感し、鴨長明や良寛など
の世俗を離れた生き方に憧れた。
メールマガジンを始めたとき、発行者名を「知足亭ジミヘン」とした。
そして、第1回目のコラムは「道具は少ないほど良い」であった。
”ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮か
ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし”
この書き出しで知られる鴨長明の「方丈記」は、無常の文学とも呼ばれる。
彼が生きた平安末期の時代、大火・竜巻・大地震などの天変地異が相次い
だ。都は灰燼に帰し、飢饉が発生し、人心は荒廃した。
世界一の地震国に住む私たちは周期的に絶望的な天災に見舞われる。しか
し、そこから立ち上がり、復興する歴史を繰り返してきた。それは、この
国に生まれた者の宿命であった。
私はこんなことを考えた。
容易に焼けおち、地震や津波で跡形もなく破壊されてしまう木造住宅に住
み続けるのは、私たちが「被災」と「復興」を前提として生きていくとい
う覚悟の表れではないか?
自然の圧倒的な力に逆らわず、共生していく。それしか生きていく術がな
い。そう考えているのではないだろうか。
春になれば花見にひとが繰り出す。満開の桜の下でひと時の宴を開いてい
たかと思えば、もう花びらがはらはらと散り始める。
散りゆく花に、美と哀しみを見る。「もののあわれ」が単なる悲しみの感
情ではなく、日本人固有の「美意識」であるところに私たちの「こころ」
を見る。
先日、ある高名な老作家が「再建という希望が残った」という文章を、新
聞に寄稿した。
生きることは苦しみを受け入れることであり、瑣事の中に幸せを見つけて
いくことである。そんな無常感が日本人を強靭で、理性のある国民にした
のではないだろうか。
(2011.4.11)